昭和54年9月26日 朝の御理解
御理解第65節
「日柄方位は観るに及ばぬ普請作事は使い勝手のよいのが吉い家相ぢゃ吉い日柄と云ふのは空に雲のないほんぞら温い自分の都合のよい日が吉い日柄ぢゃ如何に暦を見て天赦日ぢゃと云うても雨風が強うては今日は不詳のお天気ぢやと云ふではないか日のお照らしなさる日に吉い凶いはないと思へ」
この御教えを私共がそうだと信じる。いわゆる実験してみて実証しながらおかげを受けるという事は、もう金光教の信心の一番素晴らしい、そしておかげが受けられる。お徳も受けられるみ教えです。私共は教祖のお言葉と言うものが、只何でもないふうにしてお説きになっとりますから、これはとてもとても教祖の神様が自分の知識とか常識でこれを説かれるもんではないです。
確かに天地金乃神様からお伝えをこう言うわかりやすい表現でおっしゃっておられます。ですから私共がこのみやすい御教えを言うならばどんなにでも難しう、だから頂けれるです。論理的と言うならどんなに論理的にでも、この御教えは説かれるです
もう広う頂こうとしたら何ぼでも頂けれるです。例えばここで日柄方位とか普請作業の事について、使い勝手のよいのが良い家相ぢゃと言うのは、これはもう普請だけのこっちゃないです。ね、もうすべての点にこれは当てはまるです。自分の都合のよい生き方、在り方宗教以前の宗教と言われる。例えばその所以がこう言う所にあると思います。
日のお照らしになる日に吉い凶いはないと思えと、こんな寛大な表現があるだろうかと。だからそれが自分の身についてそれが他の事にもそれが利用出来ると言うか、他の事にもそれを当てはめていくと言うのがですね。合楽理念です。
私は昨日、幹部研修会でしたから、先日の霊祭の日のお説教を皆で一緒に聞かせてもらいました。素晴らしいお話しだなと思ってその事を神様に御礼を申させて頂いておりましたら、あの御霊祭の時のお説教は本気で宗教による助かろうと本当の宗教を求めていろんな宗教を致します。そこに何か息詰まりがあります。合点のいかん事がありますね。
本当に宗教によって助かろう。しかもあの世にこの世を通して助かろうと言うような熱願を持っておる人が、もしあの日の御教えを頂いたらもう一遍にまいってしまうだろうと言う意味の事を頂いたんです。皆さんもう一遍、だから頂き直さにゃいけんです。
もうそれこそキリスト教者であろうが仏教者であろうが、何宗者であろうがですね。言うならば分からなくなる。助かられないね。それも宗教による助かりです、を本気で求めるならあの日の四十分位なお話しでしたけれども、あの中に全部言うならばはっきりした指針を、それからはっきりとした言うならば死生観と霊観とか説いてあるんです。ね、そしてお徳を受ける為には、力を受ける為にはが説いてあるんです。
しかもね。只お話しぢゃなくて、それが一つ一つ私が実証して実験実証して、しかも神様から頂いた事柄が説いてあるからなのです。だから、本気で宗教によって助かる、本当の宗教と言うものを求めに求めておる人がもしあって、あの話しをああそうかと信じ聞いた、聞いて下さったら、もうそこに言うならばあらゆる宗教がもう一変にコロッとまいってしまう程しの内容のお話しだった。
たった四十分間のお話しですけどね。これはあらゆる宗教もふり捨てて、この事だけに打ち込んでいけばいいと言うお話しがしてあるんです。そしてそんな事を頂いてからです。そしてそれこそ昨日文男先生が来とりました。文男先生ぢゃないですけども、聞き終りってからもうぼやっとなる位にも有り難かった。もう聞き取れてしもてから、お話をせなんけん。何をお話しせなんか分からん位に、もう兎に角もウットリとして言うならば聞き取れてしもておったと言う事を言うておりますね。
その内容ば、もう一遍私が頂きましたような事を頂いて、もう一遍頂き直したらもういよいよもって合楽、いわゆる金光教の信心をがこんなにも素晴らしい。金光教の信心を言うならこんにも素晴らしいところまで高めた合楽理念がいよいよもって素晴らしい。宗教とは言うなら書いて字の如しである。
「宗」と言うのはウかんむりに示すと書いてある。ね、それを教えるのが真の宗教だと言うのです。
人知人力をもって頭でこねあげたりね。また一つの奇跡的な霊験的なところから生まれた宗教であると言うようなものではない。成程拝めば助かる、拝めば道が開けると言うても、開けても助かっても、その先に息詰まらなければ。教えを頂けば頂くほど息詰まらななければならない教えになっておる。 だから理屈を言わずにです。とにかくあの日の御理解を頂いてね。本当に宗教によって助かりたいと言う人があれを頂いたら、確かに金光教の信心が合楽で言われる宗教以前の宗教である事が分かるんですね。そしてそれを行じると言う事になってきたら本気で言うなら求める。本気で求道しようとする、助かろうとする人ならばそれこそ容易う楽しう愉快にそれが行じて行けれるという道であるし、またそれが説いてあるです。
私は昨日は、また我が意を得たりと言う思いがしたんですけれども。昨日、大阪の或る協会の先生からこの頃大阪百年の大変な催しだったらしいですね。大阪布教ここからの百年と言うこんな御本やらをいくらも送って下さったんです。
それをあの見せて頂いとります中に、いわゆる大阪の東三十三ヵ国ですかね。お前に任せると教祖がおっしゃたと言う畑先生、大阪から東京、言うならば海外にまで発展していったわけですけれども。その初代白神先生の御拝文、いわゆる御祈念、今皆さんがあげとる拝詞のようなもんですね。
こんなにしてから一緒に入っておりました。その一番最後のところにね。海運出精家業繁昌差し支えなきよう、この上ながら日々昼夜有り難く面白くうれしく安心のお繰合わせ仕はされますよう御願い申し上げ奉りますと言う一番最後のところです。私が我が意を得たりと言うところはどこか分かるですか。
素晴らしいですよね。面白くと言うておられます。信心と言うのは面白いんです。ね、それを言うならば難しうしてしまう。ここでは言うなら嬉しう有り難うね。しかも愉快にと言っとるですね。そう言う道なんです。 ですから今迄の言うなら観念と言うものをふり捨ててです。ね、例えば日柄もなかれば方位もない兎に角、吉い日の、凶の日のはない。もう空にほんぞら温かい、そして日のお照らしなさる日に悪い日はないと思えとおっしゃる。もうこんな簡単な言葉でですね。それがス-ッとこうそうだと信じられる所に私の場合はそれを説いて、私が実証しておるところをいつも話すからもう、そのお話に裏付けが出来ておるお話しですから、本気で宗教による助かりを求める。 ね、だからそのこの昨日の説教の中にも話しをしておりますようにですね。どんなに素晴らしい、例えば合楽理念だと言うても、それを本気で行じはまって願わなければやはり同じだと言う事。だからはまりさえすれば本気になりさえすれば容易いのです。
火の行せんならん、水の行せんならんと言ったような難しいところがない。人間が人間らし生きていけれるね。福岡から毎日参って来る婦人があります。もうそれは本当に話しを聞けば聞くほどにです。本当にあのう悲しい事であろう、苦労な事だろうと思います。それでもやっぱり苦労だからこそ毎日福岡から参ってくるわけです。そして、一生懸命その御理解を頂くわけです。
ね、だからどう言う信心さして頂いたらおかげを頂くだろうかをいつも焦点に置いてるわけですね。そこで主人がお酒を飲む、お金を使う、姑親が冷たい、子供はこういう生まれながらして不幸福な状態だ。そう言うその困った面だけを言うならば昨日主人がこうでした。母親がこうでした。どう言う信心をさせて頂いたなら助かるでしょうかと、もうそれはもう言うならば一生懸命の悲しい事や苦しい事、言うならその嘆かわしい事をお取次願うんです。
それで私が二三日前参って来た時に申しました。もう、あんたが参ってくると悔やむ事ばっかり、みんな悪い事ばっかり、それであんたが顔も悔やみ顔になってしもちから。本当あんたが顔見ただけでハア悲しかろち言うごたる顔しとるばのち、私言いましたね。
今日からただ今から帰りがけずっと御祈念をして帰る時に本当におかげを頂いておる。
福岡から久留米まで毎日毎日通って来られる、何がしかのお供えも出来る。食べるに事欠くと言ったような事はない。その困った事以外な事は全部あんたが場合はおかげばい。だから明日お参りする時には何ば一番に御礼ば申し上げようかと御礼を申し上げる事ばっかりを考えて、その参って来なさい。
ここにはね、それこそ銀行に金借りに行くような気持ちで参って来ちゃ出けん、銀行に金を預け来るごた気持ちで参って来ないかん。意気揚々としてほがらかにおかげを頂いてありがとうごさいます。それでもここに、こういう難儀な問題もある、ならそれでお取次頂いてもよいけれども、まずね。その喜びとかまたはその御礼を申し上げる事が第一なんですね。
あんたはいつもそれこそ、これ以上担はれんと言うような十字架を担うておるようなもんだから、その十字架を十(たす)の字にする工夫をしなさい。そしたら二三日参って来ませんでした。子供が熱発して出られなかったと言うのです。そして昨日参って見えましてから、もうそれこそ表情が違うのです。 三日間一生懸命考えられたんです。そして気付かせて頂いたのはほんにこの子供のおかげで、この母親のおかげで、この主人のおかげで私が合楽に御縁を頂いたと気付いた時に喜びが湧いてきた。十字架だったのが。ね、言うならば十字、プラスになったんです。 昨日一昨日の七の字二つの七七、四十九であったのが、その七の曲がっておるのが、その曲がってるのが真っ直ぐになったんです。だから御礼を申し上げる事ばっかりになったんです。
昨日はその研修会にその婦人もかたっておりましたが、この人が話されるともっと実感的で有り難いんだけれどと言うて私が話した事でした。
自分が一人で難儀、自分が一人で苦労を背負うておるように思うておると言う考え方はこれは十字架を担っておるのです。そしてもう一生担い続けんならんです、ね。そしてそれは何と言うのでしょうか。その、それを修行と、同じ修行でも修行がね。尊い有り難い修行に変わっていかないけない。
思いが変わりますと十字架が一変に言うならば十の字になったと言うようなおかげ。金光教の教祖が説いておられるのは、まさしく、ね宇宙が示した教えである。本当の宗教である。ところが今聞いて頂くように、ならこの六十五節でもほう金光教ではこげなふうに言うばいな程度にしか頂かんのです。
昔から言うてあるとぢゃけん、やっぱ家建つるなら家相ば見らにゃならん。はあ結婚する時にやっぱ黄道吉日を選ばにゃ。そう言う事では金光教の信心によって本当の助かりと言うものはないね。 ここにはそれこそ日々が吉い日であると言うなら、ここには説いておられます。日のお照らしになる日に悪い日はないと思えと言うようなところがスパッと自分の心の中に入ってくるおかげを頂いた時にです。もうそれこそ素晴らしい言うならばおかげの展開となって来るんです。皆さん、今日の御理解もやっぱり宗教以前の宗教を感じる御教えですがです。
あの霊祭の時のお説教をもう一遍でも二遍でも頂いてこの教えを本気でいろんな宗教しとる人達がです。助かる事は出来ん助かれないね。けども何かと宗教によって助かりたいと、宗教によってお徳を受けたいと言う人がです。本気であの話しを聞かれたらです。ね、もう一変に金光教の信心にまいってしまう、合楽の信心にまいってしまうだろうね。
ね、ただ空論ではない。私の信心体験実証がなされておる、しかも宇宙が示した。言うなら神様がお示しになっておる事を私が受けて皆さんの伝えておるのである。だから本気で、ならこの言うならば合楽理念によって助かろうと言う意欲を燃やしてです。その気になったら、なら誰でもが本気を出しね、はまってその事に当たろうとするならばです。おかげの受けられるほどしの教えが言うならば合楽では日々説かれておると言う事。
それを例えて申しますと、その二十三日の霊祭の日だけの事ではない。けれども私が神様からその日の御理解を、と言うふうに頂きましたから、成程それを頂き頂いてみる、頂き直して見るとです。本当に人間が助かる事の為の宗教だなと。そして誰でも助かる事が出来るんだなと。そして難しくないんだな。成程、合楽理念は簡単です、明瞭です。おかげが確かですとはっきり断言出来れるお話がその四十分の中にいっぱいしてあります。
だからそれを聞いて自分のものにして受けて、それを生活の上に現していかなければ、どんなに素晴らしい合楽理念がどうのと言うてもです。そう言う、言うならば本当の働きは現われてきませんね。本気で行ずる気にならなきゃならん。 今日の六十五節もね。やはりこれを深く味わえば味わうほど、他の宗教家がこう言う素晴らしい事を説いた宗教が一人でもあっただろうかと。大胆と言えば大胆、けれども教祖の神様がこれを自分から悟られて、これを言われたのではない。神様からお知らせを頂かれて自分もそれを実験されて実証されて初めてこう言う断言的な言うなら御教えとなっておる、と言うふうに思うんですね。 このだけぢゃないけれども教祖の神様の御教えと言うものは確かにそう言うふうなものを感じます。
あらゆる宗教が金光教に帰依して、仏教であり、金光教の言うなら天地書附を芯にしてキリスト教であると言うような在り方にならなければ、もう本当ですね。今の金光教以外の宗教ぢゃ絶対助かると言う事は絶対にありませんです。なら、金光教におってもです。今言う例えばそれを自分のものにしよう、行じようと言う事がなかったら、また理屈は同じこと、助かる事は出来ません。 「どうぞ」